1939年には第二次世界大戦勃発、アルゼンチンは参戦せず中立を貫く。 当時アルゼンチン経済は繁栄し、一人当たりの国内総生産はドイツやイタリアよりも上であった。しかしこの恩恵に与ったのは首都ブエノスアイレスとロサリオの住民だけであり、1930年代を通して豊かで華やかな首都ブエノスアイレスを目指し内陸部から国内移民が殺到し、困窮する地方都市との格差が拡大していく。
ウーゴとバンドの仲間たちもやはりサンチアゴを離れブエノスアイレスを目指す。
1944年(ウーゴ17歳)、ブエノスアイレスのオルケスタ指揮者、ファン・カルロス・バルバラと契約、サンチアゴ音楽のミュージシャンとしてウルリングアムのカフェなどで演奏する。また、フォルクローレの大スター、ロス・エルマノス・アバロスの作ったグループ、「Achalay Huasi」に加わり演奏もしている。
アバロス兄弟はやはりサンチアゴ出身の五人兄弟のグループで1939年に結成された。アルゼンチンだけでなく、ラテンアメリカ全体で活躍し、40年代から50年代前半にかけて最も成功したフォルクローレ・グループである。 タンゴ黄金期のブエノスアイレスでもチャカレーラやサンバなどは人気があった。またフランスで活躍したロス・インカスのように、国外でも人気が高いジャンルだった。
1946年(19歳)、チャカイ・マンタ(サンチアゴ出身のフォルクローレ歌手)に誘われ、彼の楽団の一員となる。
同年、ウーゴの人生を大きく変える出会いがあった。アルパ奏者のフェリックス・ペレス・カルドーソである。彼はパラグアイ出身で、アルゼンチンやパラグアイの演奏家たちを彼のアルパ率いる楽団に採用し、多くのプロ奏者を育ててきた、皆から尊敬され、愛された人物だった。
ウーゴは彼に見出され、短い間に人気と周囲の演奏家からの賞賛を集めるようになる。ウーゴは常にアバロス兄弟やアタウアルパ・ユパンキら、フェルクローレ界のスターたちと過ごした。
1949年(22歳)、ウーゴは彼を中心とした最初のバンドを持つ。ビクトリア・クーラ(歌)、ドミンゴ・クーラ(Perc.)、そしてギターのホセ・へレス、フリオ・カリーソ、ネルソン・ムルアたちである。 ラジオ・ベルグラノに出演した。
「タンゴの都」ブエノスアイレスに在ってマイノリティーであった同士、ウーゴとバンドメンバー、他の偉大なフォルクローレ・スターたちは同じ釜の飯を食い、フェリックス・ペレス・カルドーソを手伝いながら共にすごしていた。1952年(25歳)、TKレコードはハーモニカプレイヤー、ウーゴ・ディアスと契約、ウーゴは初の録音を行う。

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