2011/06/08

4 サンチアゴの音楽修行

その後ウーゴはますます音楽にのめりこんでいく。当時活躍していた地元サンチアゴのフォルクローレ・スター、エルマノス・ディアス(ディアス兄弟の意、家が近所だったらしく、名字は同じだが血縁関係はない)との交流でサンバやチャカレーラを多く学んだことと思う。

この頃、アルゼンチンのタンゴ人気は絶頂であり、ブエノスアイレスを中心に世界にまでその熱狂は伝わっていた。ざっと挙げただけでもロベルト・フィリポ、フランシスコ・カナロ、ファン・ダリエンソ…今でも名演と呼ばれるスター楽団がコンサートやラジオで演奏し、世界中を飛び回っていた。またウーゴの愛したタンゴの神様、カルロス・ガルデルは1935年6月、人気の絶頂にあって事故で亡くなっている。

ウーゴはサンチアゴ・デル・エステロ市教育委員会が設立したオルケスタ・フォルクロアの一員となった。レオポルド・ボネルという教師の指導の下、ハーモニカ・ソロを担当し、1936年(ウーゴ9歳)にはラジオ番組で放送されている。

この小さなオルケスタについて説明する。1920年頃、サンチアゴ・デル・エステロ市はクリオージョ(ヨーロッパ系アルゼンチン人およびその子孫)の文化振興、教育を促進するため、裕福層からの支援により教育委員会を設立した。国内外から有能な指導者を募り、芸術、特に音楽の分野での教育を盛んにすることが目的でこのオルケスタも設立された。このオルケスタでティート・ソテーロも共に活動している。

レオポルド・ボネルはスペインから移住してきたバスク人であり、有能な音楽家、指導者としてこのオルケスタを指導した。1957年から1940年まで、スペインから200万人にも上る移民がアルゼンチンや他のラテンアメリカ諸国に向かったが、その多くがバスク人の移民であり、優秀なバスク人がラテンアメリカの文化や歴史に影響を及ぼした例は多い。チェ・ゲバラしかり、シモン・ボリバルしかり。レオポルド・ボネルもその一人であった。

成長したウーゴは、パーカッションのドミンゴ・クーラ、ピアニストのルイス・ナポレオン・ソリアらとジャズバンドを結成する。ドミンゴは後にウーゴの妻となるビクトリアの兄である。このときウーゴはハーモニカではなく、コントラバスを弾いていた。彼らは地元ラジオ局、LV11に出演したり、グランデス・エスペクタクロス公園、コンフェテリア・パリス(喫茶店、後のロス・ドス・チーノス、リベルタ広場の前にあった)などで演奏をした。

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