ウーゴは幼少の頃、単にウーゴ、またはオレヒータ、オレハピピーラ(耳をクシャクシャに折りたたむ癖から)、へトンなどと呼ばれていた。へトンとは犬などのように口鼻が突き出ている様子の意味で、後年、彼の才能から湧き出る音楽をハーモニカという楽器で表現することを可能にした大きな口と、大きな体から来ている。
サンチアゴ・デル・エステロ。この地域一帯はアルゼンチンでは珍しく先住民族の言語が残っており、現在でもおよそ10万人のケチュア語話者やインカ語話者がいる。この影響は音楽にも強く残っており、チャカレーラ、サンバがこの地域の音楽の特徴である。タンゴも含めてアルゼンチンの歌詞にはどうにも西和辞典に出てこない単語が時々あるが、ケチュア語だったりするので普通の西和辞書では出てこない。
ウーゴは1944年(17歳)にブエノスアイレスに上京するまでこの地で育ち、多分に影響を受けたので、もちろんチャカレーラやサンバの曲も多く残している。
1929年、ウーゴ2才の時に世界は大恐慌を迎えた。そのような時代背景も踏まえて当時のアルゼンチンの地方都市を想像してみたい。
ウーゴは少年時代から音楽との出会い、特に彼を特徴づける運命的なハーモニカとの出会いを果たし、プロ・ミュージシャンとしてのスタートを切るが、彼のサンチアゴでの最初の「職歴」は、他の多くの貧しい少年たちと同じように靴磨きとしてだった。空腹を満たすため毎日、夜も昼もなく、猛烈な暑さの夏でも…市場で、屋台先で、広場で。
1971年、ウーゴ44歳のとき、雑誌「アンテナ」でのインタビューで、「今までで一番つらかったことは?」という問いにこう答えている。
「私は子供の頃、とても貧しかったんだ。貧しい家の出身だったが、特にあの頃はキツかった。何もかもが悲惨だった…」
ウーゴの生家のあった場所、インデペンデンシア通りとメンドーサ通りの角、そこから街の中心へと靴磨きの道具の入った箱を担ぎながら通った道は、その後年になって彼が音楽という天賦の才を花開かせて世界に飛び出す最初の道程となった。
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